目を配る

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日常と言う漢字を分解すると「日」と「常」に分けることが出来ます。

この意味は要するに「日頃、常態化しているもの」と言うことになるはずです。つまり、「一般的にはそうなる」と言う自らの常識であり、たとえば、同じ通勤・通学経路を通って学校や会社に行くことなどは、典型的な「日常」と言えます。

我々は、この「日常」と言うものに対し、適応していく能力が高いため「なんとなく、半無意識的に」その行動を繰り返すことが出来る世になります。あまり良いイメージを持つ人はいないかもしれませんが、「自宅を出てから会社に行くまでの様子を脳内で再生してみてください」と言われれば、多くの人が「あの出入り口からホームに降りて、この辺りで電車に乗って~…」と、頭の中にイメージと共にそれを再生できるのではないかと思います。

さて、重要なのはココからでして、我々はそうやって「脳内で再生できるもの」だからこそ、その変化に対してかなり「鈍感」になります。本サイトの自己紹介コンテンツなどで、私は万事「まず、考える」と言う事を提唱していますが、その最たるものを「視覚的に表現」すると、それは「目を配る」という一点に集約されます。

たとえば、みなさまは昨日、あるいは今日乗った電車・車両の「ラッピングの内容」を覚えていますでしょうか。または、今日と、先週の電車の「中づり広告」の、何が、どのように変わったのかは気が付いておりますでしょうか。

マーケティング領域においては「中づり広告」と言うのは結構な情報源でして、中吊り広告を見ると、その鉄道の沿線の人の暮らしぶりや、鉄道の使途、はては、年収や、生活状況などもかなり見えてくるものです。

具体的には、地方都市の不動産の案内なら、生活の大筋の年収・生活レベルが見えてきますし、男性用と女性用の広告のどちらが多いのか、あるいは若い人向け、老人向けのどちらの広告が多いのかなども沿線に住む・使う人の属性が分かりるものです。もっとも端的なのは、通学に使われる鉄道の「学校の紹介」などもそうですね。季節柄などもありますが、そういう中吊りが多い鉄道の沿線は、たいてい高校生の乗降が多いものです。

最近は鉄道の「相互乗り入れ」などと言う制度も出てきましたから、普通にやってくる車両と、相互乗り入れの車両の中吊りを比較してみると、結構な違いに驚くこともあります。「いつもの景色だから同じだろう」と考えていると見過ごしがちなこれらの「情報」は、意識をそこに向けることで、確実に我々の目に飛び込んでくるようになるのです。

このように、意識のアンテナを「外の世界で怒っている微妙な変化」に向け、「目」を解放し、世の中の変化に着目してみると、日常のはずだった街の景色は「ガラリ」と、その様相を変えます。

いつも、音楽を聴きながら、あるいはスマホの画面に目を向けていただけだと「絶対に気が付かない」ような外の世界。

五感の「目」を意識すること。そして「日常の中に見られる些細な変化」を、あらゆる角度・方向性から捉えることこそが、我々の目に映る日々の景色を、より彩り豊かなものにし、結果、たとえば街を切り取るような被写体や構図の発見につながり、あらゆる作品の素養となる。

私は最近では移動中にスマホを取り出すことを辞め、周りをよく見るようになったのですが、その結果、まるでモノクロだった日々の生活がカラーになっていくほどの変化を感じています。これが、「一眼レフを持つということ」の、大きな成果であり、日々の創作活動の糧になる、詰まる上達の素地になるのだろうな…と思っています。

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