先日、マーケティングコンサルティングを行っている際に、少し面白い話がありました。それは「コト売り」についてのお話しです。
その会社では、世間で、少し前から「モノ売りからコト売り」という言葉が使われるようになったこともあって「純粋に製品を売るのではなく、関連したサービスを売る」と言う意識を強く持って事業に取り組んでこられたというお話しを受けていました。
私はそれを聞いていてシンプルに「あれ、自分の認識はもう少し違うかな」と思い、解説したところ「なるほど、確かに」と言われたことがありました。
私は、日本が高度成長期だったころのの価値観は「モノをそろえることが豊かさである」と言う社会常識があったと考えておりまして、だからこそ「作れば売れる時代」がそこにあったと思っています。それは、裏を返せば敗戦国(何もない)からスタートしたが故に広まった価値観であり、モノが入ることで確かに生活は豊かになったのだと思います。冷蔵庫、洗濯機、自動車から始まり、パソコンや、最近ではスマートフォンなど、確かにあらゆる商品は我々の生活に利便性をもたらし、これを成し遂げてきました。
しかし、一定モノがあふれたことで、昨今では「豊かさ」の概念は変容を見せ始めているのだと思います。いまや、どこに行っても昔では考えられないくらい美味しいものを手軽に食べられたり、便利な生活を享受することが出来ます。無料でも楽しい動画やゲームを遊べるわけですし、これでは「モノを作っていれば売れる」訳が無いことも当然です。
ですから、こういう時代においては「マーケティング」の重要性は相対的に向上し、それは簡単に言えば「価値を理解してもらうことで好きになってもらう」事にほかならないと思うのです。
つまり、「モノ」にフォーカスするのではなく、その「モノ」がもたらす「コト」を訴求する必要があり、だからこそ人は、行ったことのない旅行先に行きたいと思い、食べたことのない料理を注文し、見ていない映画に感動を求めます。
これらは「期待」によって成されます。
翻って、昨今、一眼レフを通じた写真撮影の楽しさも「コト」を重視するのが私の様式になってきていることを感じます。イベントそのものに着目したり、「映える」何かを撮影するのではなく、そこに意味や、意図を見出すものです。
こんなことを言うと「そんな崇高で難しい概念、特別だろう」と言われるかもしれませんが、たとえば自分の子供や、妻、もっといえばペットの写真を撮るという行為は「単なる記録」ではないはずです。
その写真には、一定以上の「愛情」があり、被写体がカメラマンに向けている笑顔の先には、それをやはり愛情をもって記録している「撮影者たる自分がいる」と言う理論に、真っ向から「そんな気持ちは微塵もない」と言える人は少ない事でしょう。
冬枯れの写真に「寒さ」の概念を感じたり、微妙な都市の風景に何とも言えない「哀愁」を感じたりするのは、「モノ」ではなく「コト」に対して意識を向けた結果でしょう。単純に色彩が派手だとか、被写体が美しい以上の何かを、「良い写真」は持っている。私はそんなことが出来たらいいなと、撮影をしながら上達を目指しています。
「モノ」を捉えるのではなく、「コト」を捉える。難しく聞こえるかもしれませんが、その原点はシンプルに「感情」だと思います。感情が揺さぶられるような瞬間を大事にし、感性のアンテナを研ぎ澄ます。それは、一種の瞑想に似たような心地よさを与えてくれつつ、趣味を心から楽しませてくれるものではないかな。と、ちょっと詩的に言うと、思います。