先日、ポンと時間が出来たこともあり、都内某所の庭園に行ってきました。実は、カメラを持って初日に撮影をしに行った場所です。ここは撮影スポットとしても一定知られており、多くの観光客の方がカメラを持参してやって来ます。
最近の自分は、どうも「誰が撮影しても判を押したように同じような写真になる場所」と言うのが苦手になって来ており(だったら自分じゃなくても良いじゃないかと思うので)、まあ、そういう庭園も一定「そう、なりがち」なはずなのですが、「そういう場所で何を撮るのか」と言うのも良い鍛錬だなと思ったことと、初日と三週目で「どう、自分が変わったのか?」を知るためにも現地に向かいました。
ココは時間がゆったり流れているので、相変わらず構図やらをぼーっと考えながら、(昨今の写真に入れ込んでいるような作品性って難しいのかなあ)などと考えていたら、予報通り、雨交じりの「雪」がチラつきはじめ、時折強く地面をたたくようになりました。
少し、収まるのを待つために備え付けられたひさしの下で軽く雨宿りをしていると、先日家の近所で見た光景が脳をよぎりました。それは、雨上がりの生垣の葉の上に水滴が奇麗に光っていたイメージでした。
「ああ、そうか!」
そう思った自分は、庭園の中を見渡して「それ」を探します。思った通り、雨の中で顔を出したり、雨に隠れるようにしている花をいくつか見つけることが出来ました。さて、こうなると「モノの見方」や、その「表情」はガラッと変わってきます。
予定外の事は、「気づき」も多い
実は、自分は本業でもこういう経験がたまにあり、何かの施策を行っていた際の「イレギュラー」に着目した時に、これまで考えてもいなかったような「解決のヒント」が見つかる事があります。重要なのは「イレギュラー」は、たいてい「一見、自分にとって好ましくない見え方で現れる」事が多く、それを「ああ、ちくしょうめ」と受け取ってしまうのか「ふむ。そうか。どうするかな」と客観的に捉えられるのかで、その後の「気づき」の確率は、大きく変わっていく……と言う事です。
今回の場合、私は脳内で撮影中に「誰が撮影しても同じようになってしまう」と言う前提を、「どう、打開するのか?」を考えながら被写体と向き合ってい訳ですが、「雨・雪」と言う要素は、その現場に2度と訪れないであろう「雨に濡れた瞬間」と言うものを提供します。雨粒の付き方が、「すべて完全に一致し、一定」と言う事は、どう考えても起こりえなく、したがって、だからこその「瞬間」があるな。と、今回は、その様子。そのうえで、花びらの一枚一枚を丁寧に表現しようと、撮影をしておりました。それで撮れたのが以下の写真です。
雨に打たれながらも「なるほど、なるほど」と満足げだったあたり、自分はかなり「どうかしはじめて」いますが、この経験がまた「雨の日の活かし方」という糧になったことは事実です。これまでは「ああ、今日は雨だから家でじっとしていよう」と思っていた自分の「常識」を、「いや、こういう日だからこそ……」と思えることは、素晴らしい変化と言えます。
偶然を、どう捉えるか? 世の中は「万事、自分の思い通りに行かない」事の方が普通です。そういった事象を前に、どれだけフラットに考え応用するのか。そんな心構えの大切さを、改めて学んだ1日でした。