写真をこのサイトに公開するようになってから驚いている事があります。それは、シンプルに「掲出された写真の評価。具体的には、私はこの写真が好きだ」と言う意見について、出てくる意見が本当に十人十色という奴で、何か1つの作品が圧倒的に人気で、まったく見向きもされない作品もある…と言うような極端な偏りが、余り生じていない事です。
よく考えれば、こういった話はマーケティングにおける「意思決定のストーリー」にも散見され、端的に言えばそれは「ここに、iphoneを持った100人が居たとして、その100人が全員、同じ理由で購入していると思いますか?」と問えば、この問いに対して「はい」と答える人は、まずいないであろうことからも想像がつきます。
我々はモノやサービスを販売するとき、それが「モノ売り」であれば、自分を起点に話をし、一方的な訴求を行ってしまうのですが、そもそもすべての製品、サービスには「選ばれる理由」と言うものが存在し、それを適切に言語化、そして「しくみ化」をすれば、百戸と言うのは売れる道理があるわけです。これは、私がMarketer’s Brainと言う本業の会社で散々、成果として実例を挙げておりますが、結局この「シンプルな構造」を多くの人は「ついつい、忘れがちになってしまう。軽視してしまう」ため、客観的な視点をいれて、これを改善していく事が事業として成立していきます。
それは、ティーチングプロにゴルフのスイングを教わって、その場で打球が曲がらなくなったのが、コースに出たら、また曲がってしまうのと同じで、「頭で解っていること」と「体で覚えること」の違いでもあるのです。
さて、と言うことで一眼レフによる「写真撮影」というのも、写真と言うアウトプットが存在する以上、これはゴルフで言えば「打球」みたいなものであり、一定の癖がありつつも、受け手はこれを自由に受け止めるため「ど真ん中ストライク」と受け止めてもらっても、「全然はずれ」と感じて頂いてもかまいません。
ただ、写真の面白いところはそういうった作品に対しての「感想」が、如実にその方のキャラクターや嗜好性みたいなものも可視化してしまうため「へぇ…」と聞いていて感心することも多いのです。これは、撮影者も同義なのでしょうが、見ている方の感想と性格を比較してみることも1つの発見があると言えます。
人間と言うのは基本的に、外見と言う視覚情報と、言語と言うコミュニケーション(あるいは聴覚)で相互理解をしますが、ここに「作品」という「視覚的アプローチ」(美観)と言うものが入ってくるのは、コミュニケーションの深度を多層化している気がします。
だから、写真を見せることで、相手から自分への理解度があがり、自分からも相手の好みを聞くことで、理解度が上がっている……というような不思議な感覚を覚えつつも、「そうだ。人間と言うのは多様性があるから、モノを売るときはもっと自分の常識以外の事も考えるようにしないといけないよな」と、対象について洞察する重要性を感じます。
そして、そんな考察もまた、自身の写真の作品の幅を広げていく……そんな風になれば良いなと思っています。