あらゆる選択において、「無限に可能性が広がっていること」というのは、実は必ずしも「良いこと」ではないことをご存じでしょうか。むしろ、「一定の制限下」にあることで、覚えることが研ぎ澄まされて行く。
これはビジネスでもそうですし、一眼レフの趣味をしていても最近良く感じることです。
たとえば、仕事で言えば、我々のリソースが「満たされていること」と言うのはまず起こりえません。
人員が足りない、組織が協力的ではない、予算がない、そういった「欠け」が存在するのは、ほとんどの企業で「当たり前」で、ビジネスパーソンの仕事と言うのは基本的に「そういう状況下(制限)の中で、自己のリソースをどのように活用して成果を出すのか?」という事につきます。
そもそも、冷静に考えればその逆の状態の「リソースが無限で、何でもどのようにでも自由に出来て、パワープレイが可能」であれば、こんなに「誰でも出来る仕事」は無く、「じゃあ、お金じゃぶじゃぶ使って押し切りましょう」なんて事が早々起こりえないことは想像に難くないでしょう。
「不便さ」があるからこそ、我々は知恵を使い、その中で勝ち筋を見出して、歩んでいく。それは私が仕事の中で様々な企業のマーケティングを支援しても同じであり「これさえやれば大丈夫」という「定型の唯一無二の型」は存在せず(基本こそあれ)結局は、そのクライアント様に応じた「適合(アレンジ)」なくして、仕事の成果は無いのです。
さて、翻って「一眼レフ」でもこのような状況を「実感できる」とはどういう事でしょうか。それこそが、たとえば「カメラ1台、レンズ1本しか持たないで、やりきってみる」と言う行為になります。
我々はカメラを買うと、どうしても「ああいうレンズが欲しい、こういうのはどうだろう」と次々と手を出しがち(いわゆるレンズ沼)なのですが、ココであえて「選択肢を絞り込む」と、驚くほど自分が成長していく事に気が付きます。
たとえば、元々私は標準レンズにありがちな「50mm」と言う画角が苦手です。
50mmという画角は「人間が、片目でものを見たときの見え方」らしいのですが、カメラのレンズが「一眼」であるからして、この「片目≒一眼」という見え方は、限りなく人間の標準に近いと思います。
一方で、「普段見ている景色」でものを見る訳ですから、ズームしてアップにしたり、望遠にして飛行機や野鳥を捉えてみたり……というのを「裸眼の片目でやれ」と言われればコレは困難なことが容易に想像できると思います。そうすると、一見して「普段見ている景色にしかならないじゃないかー」となり、なんだかつまらなそうだと感じていた訳です。
しかし、私が先日手にしたカメラがまさにこの「単焦点50mmでどうにかしろ。しかもマニュアル」と言うおまけつきでして、これがもういろいろ大変です。連射も出来ないですし、ズームも出来ない。
ですから、じっくり考えて、守備範囲の中で距離感を気にして「撮れるものしか撮らねえ!!」くらいの覚悟で行くわけです。
むろん、他のカメラやレンズを持ち込めばこの懸案事項はクリアできるわけですが、最初は「荷物が増えるから無理」と思っていた私は、途中から「いや、これ1本なことが逆に良いかも!」と思うようになりました。
と言うのも、それを成立させるために本当に色々考えるようになったのです。
あるいは、「あれは遠くて取れないから諦める」のような「割り切り」もできるのです。そういう枷を持つことで「自分に出来る範囲の事だけやる」という、当たり前の習慣が身につき、「じゃあ、せめて出来る範囲のことは全部やろう」と、その制限の中で、自己研鑽が進んでいったのです。
もちろん、将来的には、あるいは被写体に応じてレンズを今後使い分けることもあるでしょう。
でも、その場合でも私はなるべく「今日はこれを撮るからこれしか持っていかない!」と、誘惑を抑えつつ決めるようにしていくと思います(まあ、最初は2本くらいに甘えるかもですが)。レンズをアッチコッチ代えて荷物が増えたり、シャッターチャンスを逃したりするリスクもあるわけですから、この取り決めは一定「良いトレード」になるかも……と思います。
不便さを通じて「しのぎ方を学ぶ」と言うのは、もちろん歓迎するだけのことではないでしょうが「そうせざるを得ない状況」が人を成長させることもあります。与えられた現状を変えられないことを嘆くのではなく、「その中で、自分が何が出来るのか?」を考えてみる。
「余白を楽しむ」のコラムでも似たような事を言いましたが、時間のみならず状況さえも利用することで、あらたなる「学び」の扉が開くかもしれないことを意識しておきたいものです。